50歳を過ぎた男女の恋愛における立ち位置

深追いするとトラブルになる

50歳を過ぎた男女の恋愛において大切なことは、とにかく深追いをしない事である。これは、付き合っている相手が別れたくなったら、後腐れなく直ぐに別れるということだ。

もちろん、相手が望めばいつまで付き合ってもかまわないが、年の差があると相手に若い相手が出現する可能性がある。

こうした時に、すっと手をはなしてあげること。
これが重要である。

今の相手に執着しないことが大事なのだ。とにかく、さらりとした恋愛関係を作ることである。50歳を過ぎた男女の恋愛は、自分は通りすがりの一人でいいという諦観が大事になる。

そうしないとトラブルになったり、酷い時には刃傷沙汰に発展しがちになるものだ。

男女の愛も無常である

残念なことに、変化しないものなどこの世の中には存在しない。一見、永遠に見えるものでさえ、時間の経過と共に必ず変化してしまうのだ。これは、物であれ、環境であれ、人の心であれ、変化しないものは、この世界には存在しないのである。

その昔お釈迦様は、2つの大発見をした。
それが、「諸行無常」と「諸法無我」といいう二つである。

そのうちの一つ「諸行無常」が、世の中のすべてのものは変化していくということだ。そして、変化しないものは、この世の中には、決して存在しないということである。


勢いのあるものはいつかは衰えるし、勢いの出てきていないものもいつか良くなる。蒔いた種が発芽するのも常ではないし、花が実を結んで枯れていくのも常ではない。

人の心も、愛さえも、必ず変わってしまうものなのだ。
あれほど情熱的に永遠の愛を誓ったはずなのに、それは必ず変わってしまうのである。

いい事も悪いことも続かない

必ず変化するということは、決して悪いことではない。

もし、あなたが今、ものすごい不幸に見舞われているとしよう。たとえば、破産して、借金取りに追われ、家族と離散し、独りぼっちになってしまって、さらに、重病になってしまった。

しかし、こうした状況すらも必ず変わっていくのだ。時間と共に必ず変化していく。変化するということは、ある意味、祝福なのである。

逆に、ものすごい幸運に恵まれて、幸せの絶頂になったとしても、それは、必ず変わってしまう。変化をどれだけ怖れても、どれだけ変化しないように頑張っても、それは、必ず徒労に終わるしかない。すべては必ず変化していく。

そうであるならば、進んでこの変化を受け入れたほうが苦しまなくてすむ。変化を恐れ、変化しないようにまた、周りも変化させないように一生懸命努力したり逆らっても、結局は、何の意味も持たないばかりか、むしろ余計な苦しみを味わうことになってしまうのである。

誰もが時間と共に老いていく

仮に、あなたが50代で、相手が20代だったとする。そうすると、10年経てば、あなたは、60を過ぎて老いが目立ってくるのに対して、相手は30代。女性として最も輝く年代になる。当然二人の関係は変化していかざるをえない。

しかし、変化するからこそ、人生は楽しいし希望がある。たとえ今が、苦難の状態であっても、それは、永遠ではない。今、お互いに愛し合っていても、それは永遠ではない。人の心も、世の中も、時代も、すべて変化をしていく。


相手の気持ちが変われば、それもまた仕方がない。どのみち、それは変化してしまう。そうであれば、自らその変化することを楽しむことだ。それを無理に、執着するから苦しくなるし、みっともない姿をさらすことになる。

特に、中年を過ぎてくると、これまでの経験からくる自信なのか、相手の心変わりに対して、プライドを傷つけられ激怒する人がいる。しかし、これは、ただの執着だ。それも、相手の心に対してではなく、自分を傷つけたという怒りなのだ。

50歳過ぎたら「上善水如」

「君子の交わりは淡さこと水の如し、小人の交わりは甘きこと醴の如し」

これは、「荘子」の『山木篇』にある言葉である。

荘子は、

「物事をよくわきまえた人の交際は水のようだ」

と述べた後に続いて

「つまらぬ小人物の交際は、まるで甘酒のように甘く、ベタべタした関係であり、一時的には濃密のように見えても、長続きせず、破綻を招きやすいものだ」

こう述べている。

恋愛に関しては、どうしてもこのベタベタした関係になりがちだが、それは良いことではない。本来恋愛は、君子の交わりと同じであるべきだ。

一方で老子は次のように述べている

「上善如水」

最高の善は水のようなものである。万物に利益をあたえながらも、他と争わず器に従って形を変え、自らは低い位置に身を置くという水の性質を、最高の善のたとえとした。

特に、50歳を過ぎた男女の目指すべき恋愛は、この「上善水如」である。

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